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4月23日待望の出発日を迎える。ヒマラヤへ行くと決めてから2年の月日でした。関空初24日0時30分、バンコク経由でカトマンズへ。合計搭乗時間は9時間30分、乗継時間は6時間。長旅の末カトマンズの空港が近づく、機上のモニターが目標の山と同じ約6000mの高度になった時に飛行機の窓より外を眺める、信じられない程の高さだ。
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カトマンズ盆地に今まで見た町とは違った特有の建物、街が広がっているのが見える。とうとう憧れたネパールへ到着する。不安と期待が入り交じる。
ビザの申請、入国審査を受け空港の外へ。多くの現地人に紛れエージェントがプラカードを持って待っていてくれた。荷物を渡すと高級な4WDのトランクまで運んでくれた。その後強引なチップの請求、仲間だと思ったグループの内3,4名はチップ目的の運び屋だったと後に気づくことになる。
そのままその車に乗ったものの自分が依頼していたエージェントなのか不安でならない。空港で強引に旅行会社を斡旋し高額な料金を請求してくるという事前情報もあった為車には乗ったものの落ち着かない。
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お願いしていたホテルとは別なホテルに到着する。不安がよぎる。受付でなにやら長話し、どうなっているんだろう。私達の予約は入ってなかったようで、依頼していたFUJIホテルへ向かう。
日本語が通じるこのホテルをあえて選んでいたのでホテルへ到着しやっと一安心。オーナーが日本語で何か困ったことがあったら電話して下さいと名刺を渡してくれました。エージェントも間違っていなかったようでホッとしました。
このあとガイドのテンバ・シェルパさんから明日の説明を受け商店の並ぶタメル地区を案内してくれた。
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夕食はアンナプルナレストランでダルバートを頂いた。想像してたより美味しかった。
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翌日チャーターしてくれたマイクロバスにて砂煙と排ガスとホーンの鳴り響くカトマンズをアンナプルナ方面へと移動する。大量の車、バイク、人が道路に溢れる。抜きつ抜かれつデッドヒート。永遠とホーンが鳴り響く。信号のないこの街に交通ルールすらあるのかわからないがギリギリの車間距離で皆巧みに運転していた。
カトマンズを抜けるとクルマの量は減りスピードにのるがデッドヒートは相変わらず。
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ヒヤヒヤしながらもだんだん慣れてくるもので眠くなってきて少し仮眠する。途中路肩に車を止められる日本で言うパーキングの用な場所でダルバートを頂き15時30分にはアンナプルナサーキットの玄関口ベシサハールという大きな街へ到着。
ここでジープに乗り換え凸凹の未舗装の山道に入って行く。跳ねる跳ねる、手摺を持っていないと体が安定しない。
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やがて日は暮れヘッドライトの灯りを頼りに更に山奥へ。目的地のダラパニへ(1860m)着いたのは21時位であった。
この村は電気が寸断されているとのことでしたがロッジの人達はロウソクの灯りでご飯を作ってくれ、私達もロウソクの灯りとランタンでまたまたダルバートをいただく。
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翌朝ロッジの朝食を頂きいよいよチュルーへ向けてのキャラバン開始となる。本日は午前のみの行動でティマン(2750m)まで。
森の中を抜け大きな山が見える。「あの山はなんという山ですか?」同行頂いたクライミングシェルパのマチンダラさんに尋ねる。「あの山には、名前は無いね。雪が積もると山に見えるね。」
どうやらネパールでは4-5000mの岩山には名前はなく基本的に氷河のある白い山にしか名前がないようだ。
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マチンダラさんは33歳、16歳で結婚し現在14歳の子供を含め3人のお父さんとのことでした。
その後白い山が見えてきた、ラムジュン、そしてマナスル。
ティマンへ到着。ここから専属コックの料理を戴くことになる。コックのネパール料理も美味しい。
今夜はここでテント箔となる。4人ほど寝れそうなテントを二人で使用する。何とも贅沢だ。
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その日の夜からお腹の調子が悪くなる。下痢で何度か夜中に起きる。そしてこの日から永遠と下痢に苦しめられることとなる。
ネパール特有の油の使用をやめて頂き、水分を多く含んだスープ類や紅茶等の飲み物も控え、ミネラルウォーターだけを飲むようにした。
チャーメ(2670m)、ピサン(3200m)日に々に高度を上げていく。
チュルー登山の拠点の村ンガワルに向けて景色はチベットの用な山深き風景へと変貌していく。ンガワルの標高は約3700m。
ピサンからンガワルの登りで父親はペースをつかめず呼吸が荒くなり、座り込み、やがて倒れこむ。下山も頭によぎったが、長い時間の末立ち上がり一呼吸で半歩程のゆっくりとした動きでなんとかペースを掴み自力でンガワルに到着した。
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ンガワルからは目的の山チュルーが見え気分が高ぶる。
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翌日は順応日ということでンガワルに滞在。タルチョはためく近くの丘を登ることにする。呼吸法を確認しながら急な石段を登っていく。父親も呼吸法のリズムを掴んできたようでいいペースで石段を登っていた。しかし父の目標ハイキャンプ5400mには不安が残る。
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翌日チュルーへ向けての最後の村ンガワルを出発、登山活動に入っていく。本日の目的地はヤクカルカ3950m。
現地の人が馬を連れて下ってきた。テンバさんが話しかける。ヤクカルカよりBC、BCよりHCまで馬で上がる事が出来るという。15000Rsが2日分。父親は馬を使いたいと申し出る。日本でも毎週競馬に通う父はネパールでも馬と縁がありました。
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ヤクカルカでキャンプした後BCへの長い登りが始まる。チュルーのマップを見るとBCの標高は4600m程、乾燥し砂煙の舞う山道をひたすら登る。経験したことのない高度に達していく、嬉しさが溢れる。しかし4600m付近にはBCを設置出来るような場所はなく登れど登れどキャンプ地はない。結局4900mまで登り、長い長いトラバースの後少し下った4880m地点、チュルーの氷河が溶けて流れる川の脇がBC適地であった。

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ネパールの地図は日本の地図と同じような感覚で見てはいけないようだ。今日は900mの高度を一気に上がったことになる。大丈夫だろうか。
夕方以降すごい下痢、まるで水が出ているようで大も小も変わりない程だ。この時下痢の症状は高度の影響であった事に気がついた。
日が落ちても中々寝ることが出来ず寝落ちした瞬間、息が浅くなり苦しくなって目が覚める。この繰り返しで寝ることが出来ない。(ちなみに苦しくて目が覚めた時のSPO2は70)
長い夜だった、深夜になりいつの間にか朝まで寝ていた。目が覚めてむくみ等が起こっていないかあせって鏡を見て確認する。どうやら高山病の症状は出ていないようだ。馬で登った父は元気いっぱいで私とはまるでテンションが違っていた。
朝テンバさんに話しを聞いたが、ポーターの一人は高山病の症状が出て一人山を下ったとのことだった。今日はBCにて順応日、高台に一人上がり順応を促す。キャラバンで山に入った日から昼を過ぎると雲が広がり途中では一雨来ることもあった。BCではそれが雪となっていた。
高台からもどり昼からテントで休息をとろうとするが寝落ちした瞬間やはり苦しくて目が覚める。なかなか順応出来ない。このままでは消耗する一方だ。高所では寝るときだけ酸素を使うこともあるという話しを思いだしテンバさんに相談してみる。酸素ボンベの容量を確認して頂いたが寝るときに使うとすると1,2時間しかもたないだろうとの事。それでは使う意味がない。順応出来なければ明日朝には高山病の症状が出るかもしれないが、その時はそこまでだったとあきらめるしかない。かけに出ることにした。結局酸素はあきらめて自然な順応が出来るよう最善を尽くす。
湯を沸かし暖かいスポーツ飲料を作りどんどん飲む。下痢で脱水にならないように夕御飯を抜き絶食とする。とにかく体が無駄に酸素を使わないように寝袋に入り保温に努める。21時位になると体が楽になってきた。やっと心地よく寝ることが出来ていた。深夜何度もテンバさんが様子を伺いに来てくれた。
朝起きてみると充分に睡眠が取れたことで気分はスッキリ、下痢も治まっていた。ムクミもまったくない。テンバさんにそれを伝えたが信じてもらえない程の回復ぶりであった。(SPO2-86まで回復)
今日は予定通りHCまで登ることとする。順応はしたもののこの高度ではやはり動きは遅くなる。HCも思ったより遠い。到着したHCの高度は5400m。
夕方になると雲海の上に自分達のいるHCとアンナプルナⅡとⅣが浮かんでいた。ネパールへ来て最高の景色だった。
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本日は高度を500m上げただけだが寝ようとしてもBCと同じく息苦しくて起きてしまう。馬で先行してHCへ到着した父親も今日は寝苦しいと言っていた。深夜山頂へ向けて出発予定であったが、結局翌日は順応日とする事にする。食事は全てキャンセルして消化器官を休める。
天気は日に々に悪くなり夕方から深夜にかけて雪が降る。「このまま雪が氷河の上に降り積もれば一週間は登山が出来なくなる」クライミングシェルパからの話しであった。ここまで来て山頂アタック出来ないのは残念すぎる。自分が撮ったチュルーの写真を見ながら別な稜線からのアタックルートを模索する。翌日の順応日に別ルートを偵察に行こうと考えていたが、その日は朝8時には厚い雲に山が覆われやがて雪が降り出した。視界が悪く偵察は出来なかった。
また二人ポーターが高山病となり一人は下山した。
その日の夕方雪が降り積もる中アタックの時間を打合せる。自分の足では深夜0時の出発で6時位の登頂を目指したかったが暗闇ではヒドゥンクレバスが確認しづらいという事で夜が明ける頃に氷河の末端に到達するよう午前2時30分の出発を約束した。夜遅くまで雪は降り続いたが午前2時に外に出てみると空は星に覆われていた。
キャラバン開始より10日目の朝、気温は-9度であった。SPO2は75、スタート前にゼリー状飲料でエネルギーを補給し5月6日午前3時ヘッドランプの灯りを頼りに氷河の末端に向けてガレ場を登りつめる。
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5時45分氷河の末端に到着。ずっとエネルギーが枯渇している状態、ドライソーセージを半分食べる。ここからアンザイレンし氷河の上に薄く積もった雪の斜面を登っていく。氷河の上に僅か数センチ積もった雪をピッケルでかき分けると直径30~50cm程のヒドゥンクレバスがいたるところにあった。 深さのあるものもあり、低酸素状態でこのクレバスの奥深くにはまってしまったら登り返すことがはたして出来るのか、難しい状況もありえそうだ。
一週間程先行していたドイツ人のチームが設置したと思われるフィックスロープを使用させてもらい目測で傾斜45度から時には50度に達しているのではないかと思われる長い長い氷河の斜面を登り詰めていく。薄雪のお陰で完全な氷よりは登りやすい。近年は古い氷が表面に出てきて以前の状況とはどうも違うとの事だ。雪面であれば同じ傾斜でも難易度は随分と下がる。一度傾斜は緩くなるがまた強い傾斜の登りとなる。ジグザグに登る事もなくひたすら直登。標高が稼げるぶん気分的には楽だが登るスピードは全部吐いて全部吸ってを4回繰り返してやっと大き目の一歩が出る程度。エネルギーが枯渇している分呼吸をするパワーが今までより出ない。気がついたら一歩毎に見送ってくれた人達の事を思い出していた。動きが早くなるわけではないが、前に踏み出そうという力が出てくる。
気温は-12度、筋肉による発熱は望めず気温以上の寒さを感じる。やっとの思いで傾斜がやや緩くなる辺りまで登りつめる。ここでフィックスロープは途絶えており目の前には底の見えない程のクレバスが山の上部と下部を二分していた。亀裂の幅は1mに満たないがこの僅かな距離をどう考えても安全に越える発想が浮かんでこない。
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このクレバスは2015年のネパール大地震の影響により出来たのかもしれない。クレバスの向こうには切り立った氷河がまるで壁のように立ちはだかる。その壁を越えればやがて山頂へ向かう緩やかな稜線となるはずであった。アタック開始より6時間15分、到達高度は5776m、山頂まで250mという所であった。私の挑戦はここまでとなる。100m程のフィックスロープを3本程追加し私達のチームもチュルーに足跡を残した。HCに戻りスタッフ全員と握手。テントで待っていた父が「成功、成功」と言って迎えてくれた。涙が出そうだった。
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 この旅のスタッフをまとめ全ての段取りを担ってくれたテンバ・シェルパさんは、日本語が堪能なだけでなく色々な事に気が付きまるで日本人の心を持っているような頼れるお兄さんでした。テンバさんは僅か9歳で村を出て一日40Rsまかない無しのポーターから下積みをはじめ苦労して生活してきたとの事でした。映画「神々の山嶺」の撮影にもコックとして協力した優秀なシェルパさんでした。
コックのノロバードルさんにはおいしい日本食を沢山作って頂きました、お腹の調子が悪く食事を残してしまうことも多く申し訳ない思いでいっぱいになりましたがいつも私達に合う食事を考えて頂いた彼には脱帽です。
4名のポーターの皆さんも言葉は通じませんが人懐っこく私達の生活をいつもサポートしてくれました。優秀なスタッフの皆さんに囲まれ幸せな登山でした。あと馬も合計3頭荷揚げしてくれました。
そして日本より山の選定から多岐に渡る相談にのって頂きこの旅を一から組み上げて頂いたヒマラヤトレッキングサパナの代表にも心から感謝いたします。他の会社では個人手配のヒマラヤをこれだけ入念に相談出来なかったと思います。
帰りの機上からは雲の上に突き抜けるエベレスト・ローツェ・カンチェンジュンガが見えました。また遊びに来いよと言われているようでした。
今回チュルー峰を選んだお陰で登山中、BC・HCも含め自分達の貸切状態という非常に贅沢な山行となりました。人の多い山を選べばルート工作もしっかりとされ登頂率は上がっていたと思いますがどちらを選ぶかは人それぞれだと思います。今後ヒマラヤへ向かう方は何を優先するかで山選びは慎重に行って頂けたらと思います。もし8000m以上の山に少しでも興味があるのであればチャレンジする条件として多くの場合6000m以上の山に登頂しておくのが必須となるようです。
次に私がヒマラヤへ行けるのはいつになるか分かりません。私の夢は一旦次にヒマラヤを目指す方にバトンタッチしたいと思います。またバトンを受けとるその日が来るのを楽しみに。